January 27, 2010
MIFUNE/KROFUNE Interview

クリエイションて全部自分でやらなくてもいいじゃないですか。それに早く気づいていればもうちょっとファッションも楽しく出来ていたかな
オリジナルブランド“MIFUNE”“KROFUNE”を運営し、ファッション、アート、グラフィック、Webサイト、プロダクトなどメディアを問わず「表皮・皮膜のデザイン」として広くとらえ、活動しているデザインチームmtrism surface designを主宰する萱場真鳥、萱場麻子両氏に話をうかがった。
‐mtrism MIFUNE/KROFUNEはご夫婦でやられているんですね
そうなんです
‐2人とも武蔵野美術大学出身なんですね
2人とも仙台出身で。
‐2人の出会いから教えてください
A-美術予備校です。2人とも現役で入れなくて一浪しているので学年一緒なんですよ。
M-予備校に入る頃バブル期だったんです。その後武蔵美に入って彼女が視覚伝達デザイン学科というグラフィック中心の科で僕は短期大学でグラフィックをやりました。短大なので2年終わった後に編入試験を受けて空間演出デザイン学科のファッション専攻に入りました。
A-彼が学生の頃は主任教授が今無印のアドバイザリーボードをやっている小池一子さんアート系のギャラリーをやっていたりコピーライターからクリエイティブディレクターをやってファッションの主任教授もやっていて彼が入ったのは彼女の授業を受けたいからだったと思います。
M-というわけではなくて単にファッション学科に入りたくて入ったらいたという感じですね。でもその後結局卒業してから小池さんの下でずっと働くようになったんですよ。彼女がやっているアートスペースで働きながら僕自体はアーティストとして活動をしていこうと思って何度か個展をやっていたら20代が終わりました。
‐武蔵野美大に入ろうと思ったのはなぜだったんですか
M-武蔵野美大に入ろうと思ったというか、美大に入りたくて結果的に受かったのがそこだけだったということ。勿論一通り受けましたからね。多摩美も受けるし芸大も受けるし。
‐希望の学科に入れたんですか
M-希望の学科に入れなかったから編入したんです。
A-私は入れましたけど。
‐麻子さんは何をやりたかったんですか
A-私は予備校時代は家具とかプロダクトとかそういうことをやりたくて受験用の課題をやっていたんですけど、進路を決める時に予備校の先生に工芸工業デザインていうプロダクトの専攻を出したら「お前は絶対平面系だよ。グラフィック行きなよ。お前から3次元のものが出てくると思えない」と言われて。でも一応「両方受けてみよう」と思って結局入れたのがグラフィック系の平面的なデザインだったので「やっぱりこっちなのかなー」と思ってやっていたんです。だけど結局グラフィックデザインの方が色々な事にかかわれるし、やろうと思えばプロダクトも仕事として出来るし良かったのかなと思ったんですけど。
‐Matoriさんは元々ファッションをやりたかったんですか
M-漠然と「洋服好きだなー」というくらいで。単純に物作るのが好きで。
‐専門学校という選択肢は無かったんですか
M-その辺は・・・
A-専門学校という選択肢は考えなかったですね
‐逆にファッションやりたくて美大を目指す人って日本には少ないですよね
M-じゃーファッションやりたくて美大に入ったわけではないです。物が作るのが好きだから美大を目指しただけであって。でも受験て本人だけの問題じゃないじゃないですか。期待する親とか・・・その辺も適当に応えつつ。そういうのもあります。ファッションという言葉が出てきたのは今世紀に入ってからですね。
‐大学に入ったのは何年ですか
A-1991年とかですかね。
M-バブルがはじけた頃です。
‐僕その頃小学生なのでファッションにまだ興味無かったですね、その頃原宿とか行っていたんですか
M-原宿といえば僕は一度店を原宿に1996年に出しています。10ブランド位でみんなでスペースを借りて裏原の外れというかギリギリのところでやっていました。
‐その中で今現在残っているブランドはあるんですか
M-無いです。
A-それを主催していた人がSoraというブランドでそれはBarneysとかに置かれていたんですけど今またSora Styleというデザインユニットをやり始めていて。その人くらいですね。
‐裏原ブランドと呼ばれたブランドもあまり残っていないですもんね
M-そこら辺のブランドと付き合いがあったわけではないんですけど原宿で勝手に始めましたね。みんな武蔵美の同じ学科の人達で出したんですけどその時のファッションに影響されていた服とかそういうのじゃなかったので。着れはするんですけど。武蔵美では専門学校のように洋服を作れる技術をたたき込まれるわけではなくて考え方、どうやってアイデアを出すかというところに重点を置かれていて、それを延々やらされるんですよ。
‐それって海外のやり方に近い感じがしますね
M-教授の一人が70年代にセントマーチンを卒業している人なんです。そこでそういう教育を受けてその教育方法を武蔵美のファッションが出来る時に取り入れたみたいです。
A-そのやりとりを延々とする方法で教えられたのでいざ作るとなると気力が残っていないんですよね。学生の頃って全部自分でやりたいじゃないですか。「これがこの人が得意だからこの人に頼もう」とかそういう発想が無いじゃないですか。そこの部分をもっと出来るような考え方になっていれば良かったと思いますね。クリエイションて全部自分でやらなくてもいいじゃないですか。だからそれに早く気づいていればもうちょっとファッションも楽しく出来ていたかなと思うんですけど。
‐麻子さんもファッションを学ばれていたんですか
A-学んではいないんですけど一緒にいたので彼がどういうの作っているとかそういうのは見ているじゃないですか。
M-彼女はあたかも見たかのように想像で話しているんですけど。
‐その頃はファッションが好きだったんですか
M-モードには興味無かったですね。ファッションというより衣服ですね。でも僕洋服全然興味無いですよ。だから帽子作っているんですけど。
interview,text/Masaki Takida
そうなんです
‐2人とも武蔵野美術大学出身なんですね
2人とも仙台出身で。
‐2人の出会いから教えてください
A-美術予備校です。2人とも現役で入れなくて一浪しているので学年一緒なんですよ。
M-予備校に入る頃バブル期だったんです。その後武蔵美に入って彼女が視覚伝達デザイン学科というグラフィック中心の科で僕は短期大学でグラフィックをやりました。短大なので2年終わった後に編入試験を受けて空間演出デザイン学科のファッション専攻に入りました。
A-彼が学生の頃は主任教授が今無印のアドバイザリーボードをやっている小池一子さんアート系のギャラリーをやっていたりコピーライターからクリエイティブディレクターをやってファッションの主任教授もやっていて彼が入ったのは彼女の授業を受けたいからだったと思います。
M-というわけではなくて単にファッション学科に入りたくて入ったらいたという感じですね。でもその後結局卒業してから小池さんの下でずっと働くようになったんですよ。彼女がやっているアートスペースで働きながら僕自体はアーティストとして活動をしていこうと思って何度か個展をやっていたら20代が終わりました。
‐武蔵野美大に入ろうと思ったのはなぜだったんですか
M-武蔵野美大に入ろうと思ったというか、美大に入りたくて結果的に受かったのがそこだけだったということ。勿論一通り受けましたからね。多摩美も受けるし芸大も受けるし。
‐希望の学科に入れたんですか
M-希望の学科に入れなかったから編入したんです。
A-私は入れましたけど。
‐麻子さんは何をやりたかったんですか
A-私は予備校時代は家具とかプロダクトとかそういうことをやりたくて受験用の課題をやっていたんですけど、進路を決める時に予備校の先生に工芸工業デザインていうプロダクトの専攻を出したら「お前は絶対平面系だよ。グラフィック行きなよ。お前から3次元のものが出てくると思えない」と言われて。でも一応「両方受けてみよう」と思って結局入れたのがグラフィック系の平面的なデザインだったので「やっぱりこっちなのかなー」と思ってやっていたんです。だけど結局グラフィックデザインの方が色々な事にかかわれるし、やろうと思えばプロダクトも仕事として出来るし良かったのかなと思ったんですけど。
‐Matoriさんは元々ファッションをやりたかったんですか
M-漠然と「洋服好きだなー」というくらいで。単純に物作るのが好きで。
‐専門学校という選択肢は無かったんですか
M-その辺は・・・
A-専門学校という選択肢は考えなかったですね
‐逆にファッションやりたくて美大を目指す人って日本には少ないですよね
M-じゃーファッションやりたくて美大に入ったわけではないです。物が作るのが好きだから美大を目指しただけであって。でも受験て本人だけの問題じゃないじゃないですか。期待する親とか・・・その辺も適当に応えつつ。そういうのもあります。ファッションという言葉が出てきたのは今世紀に入ってからですね。
‐大学に入ったのは何年ですか
A-1991年とかですかね。
M-バブルがはじけた頃です。
‐僕その頃小学生なのでファッションにまだ興味無かったですね、その頃原宿とか行っていたんですか
M-原宿といえば僕は一度店を原宿に1996年に出しています。10ブランド位でみんなでスペースを借りて裏原の外れというかギリギリのところでやっていました。
‐その中で今現在残っているブランドはあるんですか
M-無いです。
A-それを主催していた人がSoraというブランドでそれはBarneysとかに置かれていたんですけど今またSora Styleというデザインユニットをやり始めていて。その人くらいですね。
‐裏原ブランドと呼ばれたブランドもあまり残っていないですもんね
M-そこら辺のブランドと付き合いがあったわけではないんですけど原宿で勝手に始めましたね。みんな武蔵美の同じ学科の人達で出したんですけどその時のファッションに影響されていた服とかそういうのじゃなかったので。着れはするんですけど。武蔵美では専門学校のように洋服を作れる技術をたたき込まれるわけではなくて考え方、どうやってアイデアを出すかというところに重点を置かれていて、それを延々やらされるんですよ。
‐それって海外のやり方に近い感じがしますね
M-教授の一人が70年代にセントマーチンを卒業している人なんです。そこでそういう教育を受けてその教育方法を武蔵美のファッションが出来る時に取り入れたみたいです。
A-そのやりとりを延々とする方法で教えられたのでいざ作るとなると気力が残っていないんですよね。学生の頃って全部自分でやりたいじゃないですか。「これがこの人が得意だからこの人に頼もう」とかそういう発想が無いじゃないですか。そこの部分をもっと出来るような考え方になっていれば良かったと思いますね。クリエイションて全部自分でやらなくてもいいじゃないですか。だからそれに早く気づいていればもうちょっとファッションも楽しく出来ていたかなと思うんですけど。
‐麻子さんもファッションを学ばれていたんですか
A-学んではいないんですけど一緒にいたので彼がどういうの作っているとかそういうのは見ているじゃないですか。
M-彼女はあたかも見たかのように想像で話しているんですけど。
‐その頃はファッションが好きだったんですか
M-モードには興味無かったですね。ファッションというより衣服ですね。でも僕洋服全然興味無いですよ。だから帽子作っているんですけど。
interview,text/Masaki Takida






